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2015年10月

2015年10月29日 (木)

鬼がわらう?

暑い暑いといってるまに、季節がかわって
もう今年ものこり2ヶ月になりました。

お父さんの通勤用シャツの補充のために紳士服売り場にゆくと、
こんなコーナーがありました。

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申年と赤い下着の関連って・・・?

ああ、おさるのおしりは赤い。に由来するのか

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うれしくなって(爆)、お父さんになにか買っていってあげようか
と思いましたが、彼は私とちがい(笑)
「迷信はキライ」なんだそうです。

「日本製」のこだわり。
昔は衣類ふくめたいていの日用品は国産だったと思うのですが、
いまやステイタスなんでしょうか。

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めぐりめぐって、安価なものから高級品まで
また国産品が主流な時代が、もうすでにきているのかもしれません。

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来年が、いっそう幸運な年になりますように。


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2015年10月25日 (日)

プロレス日和な日曜日。

好天の日曜日
メイ喫のオーナーがひさびさにプロレスに連れて行ってくれました。

ローカルブームを巻き起こしているB168プロレス
京阪神にお住いのかたは、どうか応援してあげてください

今回は、贔屓していただいている建設会社の所有スペース
をお借りしての興行。

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トラックの上で乱闘!?
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年配のかたからお子さんまで、地元のみなさんが多数見にきてくださったようです

カードも内容も面白くて熱戦でしたが、

西日がつよくて非常にまぶしかったのと、
埃でぼろぼろ涙目(笑)になったのが、ややネック

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子供たちにかこまれる安藤雅生選手。
逆光でちゃんと写ったのかどうか、リアルタイムでは全くわかりませんでした

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フリーダムタッグチャンピオン.jpg

フリーダムズ・タッグチャンピオンの神威選手。
これから年末、来年のクライマックスシーンにむけて
大いに活躍してほしいと期待しています


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2015年10月16日 (金)

ヒヤリとしたこと。

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ATMコーナーに寄ろうとしたら、長蛇の列。
室外の列にならんでぼーっとしていると・・・
鈍い轟音のような大きな音がして、

ATM室からとびだしてきたかたが叫んだ。

「だれか救急車呼んで ! !」

ATM機操作中に、隣でATM使用していた人が突然倒れたらしい。

動転しながらとっさに携帯で119呼び出し、

「・・・※※駅前ロータリーのжжコンビニとなりの¶¶銀行ATMです。
 すぐ来てください」

・・・さきほど叫んだかたが、「意識ない !」と教えてくれた。

救急車到着をじりじりして待っているうち、
周りのかたが呼んでくださったのか交番から警官がかけつける。

(でも医療、救護のプロが来てくれないことには・・・)
と、あせってもどうしようもないのにひとり勝手にあせっていた。

時間にして、実際は10分ほどだったか、
ロータリーにようやく救急車が到着、担架で倒れたかたを移動させる。

・・・どうやら意識がもどり、警官の呼びかけにも反応があるらしい。

とりあえずほっとした。

緊急の場合。
迅速に最適な対応できるにこしたことはないけれども、
実際にはなかなかそううまくいかないと痛感。

医療のプロでも、原因がわからないことには対処困難だろうし、
倒れた人の身体にへたに接触するのも、場合によっては危険になりかねない。

疾患によっては、倒れてから医療機関に運ぶまで
一刻一秒をあらそう事態がままあるようで、倒れた人の身近にいたかた
が「救急車よんで ! !」
とすぐ叫んでくださったのはほんとによかった。

目の前で人が倒れた時の対処法

急変時の対応について

あすはわが身。
なさけはひとのためならず。

もとよりたいしたことがなにもできるわけはないけど、
できることがあればしたいとはつねに思う。

どうかだいじありませんように。


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2015年10月14日 (水)

原点すでに戦前にあり。

古書即売会の収穫。

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昭和17(1942)刊『婦人の生活』第2冊 とあります。
1000円でゲット。
戦前の生活史がみられるかとパラ見して・・・

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え? とびっくり

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写真。レイアウト。活字。編集。見出し。カット。これは・・・

なにもかも、
他社の追随許さない独創的な生活誌として戦後を席巻した
暮しの手帖』にそっくり・・・

否、まんま『暮しの手帖』だ ! ! !

目次を凝視

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執筆者もそうそうたるメンバー。

装幀は、佐野繁次郎画伯。
画業のかたわら
戦前戦後とも個性的なブックデザインで活躍なさっていますね。

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写真は・・・創刊当時から『暮しの手帖』で記事の写真撮り続けた
フォトグラファー松本政利

やっぱり

・・・なのに、なのに。

とうぜんあるはずのお名前が、唯一載っていない。なぜ ? ?

錯乱しかけましたが(爆)、そこはネットの時代。

ありがたくも(笑)、検索かけてわかりました。

こここちら。 ウェブ掲載してくださったかたに、ただ深謝

なぜか
安並半太郎

稀代の編集者、
のち『暮しの手帖』名物編集長・花森安治氏のペンネーム
だそうです。
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経済的・活動的にしてつくりかたが簡単でみためもよい
として、戦後『直線裁ち』を提唱した花森氏は
キモノ👘にも造詣深かったのですね。

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あらためて、その多彩な内容におどろき。

太平洋戦争開戦直前に発刊、そして初期とはいえ戦中に重版。
(全10冊刊行予定だったらしいのですが、残念ながら頓挫したそうです。)

タイトル『外国雑誌を見誤るな』
当時、海外のファッション誌を閲覧できた家庭はどれほどあったのでしょうか。

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右写真はいわゆる「二号さん」の装いなのだそうです(^^;)・・・
財閥や新興成金??  いずれにせよ桁違いな世界。

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右の写真は当時
美容界のトップリーダーのおひとりだった吉行あぐりさん考案の
「うちで結える髪」。洋装・和装どちらにも向くようです。

鏝やカーラーでかたちづくるのはたいへんな手間ひまでも
もののない時代だけに、おしゃれの渇望は深く・・・
マンガの「サザエさん」はじめ、
多くの女性が自分でヘアスタイルをきめたのでしょうね。

左は「胴はぎ」の婦人服。
戦後デザイナーとして華々しく活躍した伊東茂平氏考案。
中原淳一先生なども
同様な企画を手がけたころでしょうか。

和装が洋装に転換するのは時代の必定
だとしても、
やがて「ぜいたくは敵だ」とエスカレートして
スカートはもんぺに。

婦人の生活12.jpg

古い着物地を利用して洋服にリメイクする、
マス・ケートさんの提案。

戦後の衣料不足でいっそうニーズは高まり、
のちの『暮しの手帖』にもひんぱんに登場する企画。

時代はかわり、21世紀現代では
昔ながらの日本の生地、紬や銘仙を洋服にしたてなおすのは
贅沢な趣向に変貌。

ともあれ、『暮しの手帖』の萌芽は戦前からあったのですね
すでに前世紀の戦前を知るかたが少なくなっているなか、
花森氏のお仕事の一端ふくめ
あらたな側面をみせてもらうことができました。

花森氏
および
氏が生涯かけて志向・追及した

うつくしい暮し

に敬礼。


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2015年10月13日 (火)

美女ありき・1936年

昭和11(1936)年の『婦人倶楽部』10月号に
和田邦坊画伯による崔承喜のインタビューが掲載されていました。

和田邦坊画伯は当時の人気漫画家、
中学・高校時代に歴史の教科書に載っていた成金の風刺画
の作者といえば、思い当たるかたも多いかもしれません。

いわばタレント文化人、芸能レポーター?
昔も今も大して変わりませんね。

全文引用してみようと思います。

1

邦坊女人問答・崔承喜さんの巻


五尺四寸二分で体重十四貫六百あるというから大変である。

換算して、五尺四寸二分は1メートル64センチ、十四貫六百は54.75キログラム。
だいたい身長165センチ前後、体重55キロでしょうか。
理想的なバランスですね!
彼女はひじょうに長身だったといわれますが(170センチ以上はあったとの情報もあり)、
160センチ以上なら当時の成人男性よりも大きく、
現代なら180センチ近いスーパーモデル並みの感覚だったのでしょう。


僕は先年、死んだ人見絹枝嬢に『こっちへいらっしゃい』と
手をひっぱられてころんだ経験がある。女だって大きいと男より力は強い。
『あら、よくいらっしゃいましたわね。サ、こっちへいらっしゃい』
崔承喜さんが歓待の両手を差しのべた時に、僕は思わず手をひっこめた。
また、転がされたらみっともないと思ったからだ。


背が高いから腰かけると裸の向う脛がこっちへニュッと突き出た。
僕はこの隆々と肉のしまった向う脛を(変なところを見つめて失礼だが)
顔を近づけて一生懸命見つめながら、ああ立派な脚でござる。これは
絹枝嬢と同じような脚でござる。さぞ走ると早いことでござろうと独りで考えて、
『あなたの脚は生まれながらに動かす商売に出来ている』
といったら、
『長いでしょう』
と自分で眺めて、パチンと向う脛を叩いた。
『僕も叩いて見てもいいですか』

と訊ねたら、
『いい』
というから、パチンと叩いた。
別に変わった音色が出たわけではなかったが、肉がしまっているので、
音は丁度絹枝嬢のと同じだった。


『この脚なら走っても早いだろうな』
『早いわよ、孫(そん)選手だってどうです』
と威張った。なるほど、半島が生んだ、マラソンの超人、
孫基禎選手は彼女の仲良しであった。
グルネワルトの杜に二十四年待望の大日章旗を揚げて、大いに日本のために気を吐いた
孫選手、こうなると彼女の鼻息は荒い。
『内地の方が勝つより私何倍か嬉しいですわ。朝鮮生まれの人が全日本の爲めに
働いたなんて、こんな愉快なことはありません』
『郷土愛だな』
『私、あの朝、孫さんが勝ったラジオ聞いていて、思わずコドモを握りつぶしたのよ』

『え !  子供って ?』
『鶏のコドモ』
『鶏の ?』
『ええ、卵を握り潰したの』
やれ、安心した。子供を握り潰したというから、また
彼女の一粒種を本当にやったのかと思った。なるほど、
卵なら鶏のコドモに違いない。
『女ではあなたが選手だ』
『でも、私なんか』
という。謙遜しているんだ。この位の体格になると謙遜する嬌態(しな)だって容易じゃない。


2『私、大きいでしょう。大きいと大根芸といって、ニューとしているからアラがよく見えるのよ』
『損だな』
『ええ損ですわ』
『そのかわり、夫婦喧嘩の時は得だ』
『ところが、うちのひとは私より大きいから・・・』
それじゃ、何にもならないや。
『あなたは幾つのとき結婚したのですか』
『二十歳の時・・・』
『恋愛結婚ですか』
『見合いみたいな、恋愛みたいな・・・』
『変な結婚だな』
『私の兄のお友達だったのです』
『そこで互いに交際している内に、つまり・・・その遠くて近きは男女の仲、
近くて遠きは聾の中って・・・』
『それ何ですか』
『浪花節にあるんですよ。つまり、何時しか恋愛になったのでしょう』
『いいえ、交際はしたのよ。でも、兄の家で見合いして結婚したのだから・・・』
『でもあなたの主義は、恋愛至上主義だというではありませんか』
『そうよ、恋愛至上主義ですわ』
『それに、見合いみたいな、恋愛みたいな、ややこしい結婚なら
あなたの主義と違うじゃないですか』
『私がそうじゃないから、結婚を前提とした恋愛至上主義なの』
『つまり、夢を持っているんだな』
『そうですそうです』
と彼女が嬉しそうに、
『自分の無い世界だから始終夢を追っているの、この気持ちは芸術家にはいいことでしょう』
なるほど、こいつ頭がいいぞ。

『その夢をあなたは大事にしなさい』
『モチよ、踊りのうるおいもこの夢から自然に生まれ出るのじゃないでしょうか』
といって、今度は彼女は膝坊主を叩きながら、眼を細くした。二重瞼の茶色の瞳だ。

弟子がソーダ水を運んで来た。僕はストローをすぐ取ったが、彼女はぼんやりとまだ
眼を細くしている。・・・・あんまり姫には夢を見過ぎる。

彼女の兄上も、夫君の安漠氏も、ともに日本の大学に留学した
当時の知日派インテリグループ。
同じグループ内での彼女の結婚は想定内、必然な出来事だったのでしょう。

『もう、夢はその位にして、次の問答に移ります』
といって、
『あなたは男役ばかりやって、女役はどうしてやらないのです』
『女役やりたいけど、私がこんな背が高いでしょう。私の相手の男役なら、どうしても
五尺七寸くらいなくちゃいけないわ』


五尺七寸は約172センチ。
こちらの画像から、
男役が多かった当時の彼女が偲ばれるでしょうか。
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五尺七寸・・・・か。なるほど五尺七寸の相手をさがすのは骨だ。
『それで、男役ばかりやっているんですな』
『ええ、ノッポも困るわよ』
という。僕、うっかり、
『この脚を少し折るといいんだな』
といったら、
『エヘン』
と次の部屋に咳払いあり。
『夫君がいるんですか』
と親指を出して見せる。
『ホホホホホホホ』
と彼女が笑っていた。

あなたが舞踊をやりだしたのは幾つからですか』
『昭和二年、十六歳で東京へ出てきたのです』
『十六歳で』
『ええ、
石井漠先生のもとに三年いて、それから十八で京城へ帰りました』
『なるほど』
『すると、親たちが早く結婚しろというのを押し切って勉強を続けました』
『しかし、二年してすぐ結婚したんでしょう』
『ええ、それは朝鮮というところは大体芸術家は卑しいものとして、
お嫁にしない風があるのです』
『お嫁にしなきゃ何にするんですか』

『パトロンがついて、妾にするんです』
『あなたにもそのパトロンが申し込みましたか』
『ええ、随分煩かったですわ。だから私、そういうパトロンから逃げる為に
防風林みたいなものが必要だったのです』
『へ、防風林 ?』
『ところへちょうど兄のお友達で年は二つぐらいしか違わないけど、今の夫と・・・』
『ちょっと、待って下さい』
『何ですの』
『その防風林というのは夫のことですか』
『ええ』
『風除けとはけしからん。あなたは夫を愛していないのですか』
『愛していますわ、そりゃ』
『エヘン』
と次の間から満足の咳払いが聞こえる。


3『しかし、私小さい時から周囲の人から愛される立場であったから、
自分から積極的に愛する立場になったことがないの、だから愛に対する本当の経験が無いわ』
『あなたは子供があるでしょう』
『ええ、子供も愛しているわ』
『じゃ、家庭生活は円満だな。夫も愛しているし、子供も愛しているから・・・』
『ええ』
『ファンからのラブレターや誘惑は来ませんか』
『ラブレターなんか来ません。世間では私に夫があること大抵知っているから・・・』
『誘惑は ?』
『舞踊に夢中になっているから、そういうものを受け入れる暇がありませんわ。
それに私は自我が強いから駄目』
『エヘン』
と再び満足の咳払いが聞こゆ。

『あなたの子供は幾つですか』
『五歳』
『あなたは幾つですか』
『二十五歳』
『じゃ、結婚するとすぐ出来たのですな』
『ええ』
『やっぱり脚が長くて跳ねますか』
どうもこの質問のコトバはよくない。まるで馬の子みたいだ。
『門前の小僧習わぬ経を読むっていうのでしょうか。私の真似をよくするのですよ。
パタンと転ぶところなんかやって見せるわ』
その位なら僕でもやって見せる。

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愛娘の勝子ちゃん、のちの安聖姫は自身も優れた舞踊家になり、
一家の帰国後モスクワに留学したり、数々の国際コンクールに出場しました。
当時の雰囲気がつたわってきます。

「朝鮮では女の子よりも男の子を尊重しますので、この子が生まれたとき、
お祖父様達が大変力を落とされたので、私が勝子という名前をつけたのです。
子という字は朝鮮では男を意味するので、つまり勝子は男に勝つという名前
なのです」(朝日新聞 1936.8.12)


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「忙しくて忙しくて、まるで南京鼠の車まわし」-----
朝鮮半島が生んだ美しの舞姫崔承喜さんは一粒種の勝子ちゃん(4つ)
の手を引き、薄い舗道の木もれ日を踏んでゆく、久しぶりに仕事から
解放されたある日の昼さがり。母と子の楽しい散歩の道で
「本当に踊り、踊りの生活なの、こうして勝子をつれて外を歩くなんて
ひと月に一度もないのよ」
と彼女は美しい眉を寄せて『多忙な有名人』の我が身を怨ずる。
「こうして街を歩いていて、私の顔のついている公演ポスターなどを
見ると、この子はママといわずに承喜、承喜っていうのですよ」(報知新聞、1935.5.31)

『あなたのその髪はなんですか』
『ただの断髪』
『人見絹枝嬢もそういう断髪をしていたな、彼女とあなたはよく似ている』
『そうですか。今度オリンピックは日本でしょう。私、走ろうかな』
『孫選手と一緒にお走りなさい』
『ええ、ホホホホホホ』


今度のオリンピックは日本
とは、1940年開催予定だった東京オリンピックをさしていると思われます。


『あなたは何が好きですか』
『映画を見ることと・・・』
『別に僕が奢るわけじゃないから遠慮なく好きなものを並べてください』
『私はあんまり、好きでたまらんというようなものはありませんわ。
ただ眠ることが好きなの』
『眠ること・・・それならタダだ。ウント眠りなさい』
『一日に十も踊るんでしょう。そりゃくたびれますわ』
『もう、そろそろくたびれましたか』
『ええ』
『それじゃ眠りなさい』
僕は立ちあがって、最後に、
『あなたは化粧をしてないようだが、ふだんはしないのですか』
『簡単ですわ。眉を引くのと、唇を描くのと・・・・』
『あなたの、その唇は中々いい格好だ』
僕は唇を誉めて、
『そういう唇はキッスがとても上手なものですよ』
といったら、次の間から、
『エヘン、エヘン、エヘン ! ! 』
と三つも大きな咳払いがした。
僕、急いで帽子をとって、ステッキを抱えて・・・

『いや、どうもお邪魔しました。』(をはり)

明眸皓歯の美しい舞姫に、悩殺される邦坊画伯(^^)。

『婦人倶楽部』本文以外の画像は、すべて『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。

1936年、崔承喜は芳紀25歳。
新進舞踊家として絶賛され、家庭も円満で公私ともに順調。
彼女の劇的にして数奇な波乱万丈の人生で
最も安定して幸せだったのがこの東京時代でしょうか。
とても切なくなります。

よりくわしく知りたい方に、西木正明氏の『さすらいの舞姫 北の闇に消えた伝説のバレリーナ
小説ですが、秀れた評伝になっています。



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2015年10月12日 (月)

美女ありき。

図書館でみつけた雑誌バックナンバー、
表紙に躍動する美女の写真。

思わず手にとりました。
戦前、日本で成功して活躍し、
世界的な名声をえた
朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜

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桑原甲子雄氏が撮影した有名な写真。

1934年、鎌倉・由比ガ浜で行われたオリエンタル写真工業の撮影会でモデルをつとめた崔承喜
とあります。

・・・不思議なのですが
とても今から80年も前の古い写真にはみえません。

着用している水着(当時最新流行?)
が古風といえばいえるけど

のびやかな肢体、若さ匂いたつ健康美。
21世紀現代のCMでもじゅうぶん通用しそうです。

舞踊の実力に加えて天与の美貌。
彼女は当時の大スターでした。

舞踊家・石井漠に師事、修行を積んでいたころの崔承喜。
16、7歳ころでしょうか。
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『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。
美少女ですね。

舞踊以外にも、各種広告やファッションモデルに
ひっぱりだこの多忙ぶり。

画壇でも、安井曽太郎や鏑木清方のような当代の一流画家が
きそって彼女を描いたといいます。
いつか拝見したいですね。

崔承喜8.jpg

『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。

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昭和11(1936)年主婦之友9月号より。

万人向けのする軽快な流行型の婦人用ブラウス
秋のブラウスに、ぜひお召しくださいませ。
これは、崔承喜さんだけによく似合う・・・のではありません。
どなたにも向く流行のスタイルです。

・・・と本文にあります。

おどるばか.jpg

恩師・石井漠の回顧録・昭和30(1955)年・産業経済新聞社。

『崔承喜』に1章をもうけています。

1_2・・・その時に、当時京城日報の学芸部長をやっていた寺田寿夫氏の紹介状を持って、私の
楽屋を訪れた二人の兄妹があった。兄承一君の話によれば、自分の妹をどうしても舞踊家に
仕上げたいのだという。どうか世話をしてくれるようにとのことであった。
その妹というのは云うまでもなく今の崔承喜ではあるが、その頃の崔承喜は、
淑明女学校を卒業したとはいうものの、まだ十六才の小柄な少女に過ぎなかった。・・・

・・・私達は承喜を連れて、二等車の人となった。大勢の見送り人と挨拶を交わし、いざ
発車という時になると、改札口の人混みから、一人の日本婦人の止めるのも聞かず、白衣の
婦人が朝鮮語で承喜の名を呼びながら、狂人のように駈け出してくるのを見て、私達は吃驚した。
 そのうちに汽車は動き出す、承喜は私達のおさえるのも聞かず体をのりだして
「オムニー、オムニー」と涙をふきふき、金切り声をあげて母を呼ぶ。
あの時の光景は忘れられない。
 しかし見送人の影も遠ざかり、やがて龍山の駅に着いた頃は、承喜の気持も和らぎ、窓から顔を
出したまま、学校で教わった日本語の唱歌を歌っているので、私達は思わず顔を見合わせて
微笑まずにはいられなかった。あの時の日本婦人は女学校の受持の先生だそうで、母親には
東京に行くことを全く内証にしていたことが後でわかった。・・・


2・・・大正天皇の亡くなられたのはそれから間もないことであった。
多摩御陵行きの御霊柩の列車が通るというので、私達一同は中央線の線路ぎわに
お見送りすることになった。承喜もその中に混じっていた。
いざお通りになる時になって一同黙とうしていると、承喜は何故か後ろ向きに突っ立っている。
私はそれとなしにたしなめたがきかなかった。後で、その理由を聞くと、
「私は、日本の天皇さんを拝む気持にはどうしてもなれません」と、
はっきりいわれたのには言葉が出なかった。それほど、その当時、日本に対する民族意識が
高まっていたのである。
 私はこの時、天皇様に限らず、どんな貧しい人の死に対しても、敬虔な気持で見送る
ことのできないような人は、決して立派な人になれないことや、芸術家になる資格のない
人間であることを、よくいい聞かせると、さすがに利口な子供だけに、涙を流してうなずいた。

3・・・その後三年の月日が経って、私達が北海道の公演をすまして東京に帰ってくると、
崔承喜は急に帰国を申し出た。ちょうどこの頃の半年ほど前に、山陰道の旅行中私は眼病にかかり、失明を伝えられて間もない頃で、奥の室で来訪医師の手当てを受けて、眼を包帯したまま
ソファーに横たわっていた時だった。そこで極力それを引き留める勇気もなく、そのまま別れる
ことになったわけだが、その後、崔承喜は京城において、かなりの奮闘をつづけている噂を時々
耳にしていたのである。
 そのうちに私の眼も奇蹟的に快方に向かって、それからまた度々京城を訪れる機会に
恵まれたわけだが、それから二年後の夏、京城に行った時は、安という早大露文科出身の青年

と結婚していたばかりでなく、大きなお腹を抱えて出迎えの人の中に立っていた。
そして承喜夫妻は、つくづく前非を悔い、再び東京に行って指導を受けたいと懇願するので、
気の弱い私達夫婦は遂にその談判に負かされてしまった
。・・・・

4・・・それから三年目に、いよいよ崔承喜の第一回舞踊公演を明治神宮外苑の青年会館で催すことになった。現代舞踊家は、バレエの場合と違って、それぞれの特徴を持っていなければならない。
この意味でやがては朝鮮舞踊の研究をやり、それを国際的手法によって、その精神を再現する
ことが崔承喜のためにも、世界の舞踊界のためにも、最も意義のあることだといったようなこと
を話し、嫌だというのを無理に朝鮮舞踊を一つ、プログラムに入れさせることにした。
 

・・・それからというものは、崔承喜の名声がとみに高まり、独立して崔承喜舞踊団をつくり、全国的に公演を行うようになったが、例の『半島の舞姫』の映画が製作されたのも、この時分であった。・・・・

その後、間もなく承喜は映画が完成すると、アメリカに渡り、ヨーロッパ、南米の公演を行い
非常な成功を収めて、再び日本に帰るに当り、崔承喜は共産思想をもっているという噂のため、
上陸を危ぶまれたらしく、このことを書いた長い手紙を受け取ったが、云われるままに
船に迎えに行くと、大したこともなく私の身体にすり寄るようにし、どうにか事故なしに上陸
出来たことは嬉しかった。
 

それから後、十八年八月には帝劇を借り切って、二十五日間の単独公演をやり、連日満員の盛況
を呈したが、これなどは、日本では勿論のこと、単身でこのような長期公演をやった例は
世界にも類のないことである。



5_4・・・その後、崔承喜は帝都電鉄沿線の永福町に立派な洋風の邸宅と研究所を作って、
そこで研究をつづけていたが、そのうちにいわゆる大東亜戦争の機運が高まり、
承喜夫妻は弟子達と共に大陸へ軍隊の慰問に行っていたらしいが、そのまま日本には
帰ることが出来なくなり、結局、北京におちつくことになったということを、風の便りに知った。
 

そのうちに、朝鮮は南北二つにわかれ、崔承喜は夫の安君と共に、北鮮政府の中でも
重要な地位をしめるようになり、承喜は芸術方面に、特に、舞踊方面に力を入れているらしく、
先年ソビエトに招聘され、国賓待遇をうけながら、圏内の各都市を公演し、非常な賞賛を
博したということを耳にしたが、あの利口そうな承喜の、素振りから顔までが、頭の中に浮かび
出て嬉しかった。
 

また三年程前に、チェコスロバキアのプラーグで、民族舞踊のコンクールがあって、
承喜の一人娘の勝子ちゃんが、安聖姫と改名して出演、最高の栄誉を勝ち得たという
報道にも接して、私としては重ねて嬉しいかぎりであった。
 

最近、崔承喜来日の噂が高く、そのために、よく新聞社あたりからも尋ねられて弱っているが、
しかし、私としてもそういう時期の一日も早く来てくれることを、待ち望んでいる次第である。

年譜では、
『おどるばか』上梓されて2年後の1957年、モスクワで開催された平和友好祭で
師弟はつかのまの再会、だきあって喜ぶ感激のひとこまがあったようです。

・・・その後しばらくして崔承喜一家の消息は完全にとだえてしまうのですが
彼女の恩師である石井漠先生の語調には、
遠くない将来再会して、ふたたび自由に交流できる日を切望する
未来への明るい期待が感じられますね。いっそう悲しい。


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2015年10月10日 (土)

秋はリンゴ。

美容と健康のため? に
気になっていた『りんご酵素』を仕込んでみました。

ネットで検索した、いちばんかんたんな作り方です。

20151012110652.jpg

りんご2個分つかいました。
りんごと同量の砂糖で漬け込み1週間ほど放置
(その間、朝晩2回、清潔な手でかきまぜる)。

最初はかさ高かったのが、一晩でりんごがしんなりして
砂糖がほぼ溶けたシロップ状に。
砂糖の浸透圧はすごい。

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1週間したら
りんごだけ取り出す。
紅茶に加えたり、ソーダ割りしてりんごソーダ、
カクテルや料理にもつかえそう。

味も、漬け始めは砂糖そのもののようだったのが
あっさりした「果糖」の甘さに変身。

とりだしたりんごは
パイシートにのせてシナモンシュガーとバターをちらし

オーブンでやきました。

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かんたんタルトオータタンの気分?

でもパイシートは高価い(笑)ので、
次はもっと安上がり(笑)な方法考えよう。


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2015年10月 6日 (火)

お祝いラッシュ。

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日本中が全世界からのお祝いムードにわいた、うれしい1週間でした。

ワールドカップラグビー連勝、ノーベル賞連続受賞

ノーベル医学・生理学賞受賞
の大村先生は医師出身かと思いきや、
なんと高校教員でいらしたとか。

化学者、2億人を救う。「元高校教師」が生み出した薬

道程の悪戦苦闘、すさまじい努力精進は
桁違いとはいえ、
『人のすばらしい可能性』に心底うたれます。

おめでとうございます。
ほんとうによろこばしい。

とうていおよびませんが、

「失敗してもくじけず、こつこつ地道に努力しつづける」
あきらめない打たれ強さ、

ささやかな毎日のなかでも見習うべき部分多いですね。

日本万歳。


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2015年10月 4日 (日)

躍る日の丸。

祝・W杯連勝。

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サモア戦、みたかったのですが
地上波で10時半以降だったので・・・
睡魔に勝てず寝てしまいました

五郎丸選手のGK前のジェスチャーが
ラッキーサインとして流行の兆し

選手のみなさんの満面の笑み
躍動する日章旗。

激動するくらい世相ですが、アスリートの世界では
浅田真央選手のフィギュアスケート第一線復帰圧巻V
とならぶ慶事

ジャパン(日本代表)もほんとにメンタル強くなったなあ
とよろこばしい。

エディーさん、グッジョブ

みなさま、うれしい感動をありがとうございます



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2015年10月 1日 (木)

やっと20枚。

ほそぼそと継続して参加させていただいている
世界の子どもたちへ編み物作品を送ろう』プロジェクトの
あみものボランティア。

今回は締め切りが9月28日~
と例年より早くなりました。

ボランティアスタッフのみなさまが全国のニッターさんから
とどいたセーターをサイズごとに仕分けし梱包して
晩秋までに現地に送り、
本格的に寒くなる前に子供たちに配布しようという
配慮のようです

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・・・なので、今回送ることができたのは1枚のみ
(なさけない編み物ボランティア)、

120センチサイズ。

じつは、ほつれたセーターをほどいたリサイクル?毛糸
で編みました。
ほどいた毛糸2.jpg

ほどいた毛糸4.jpg

ほどいた毛糸3.jpg

まだ大人サイズのおそろいのセーターがもう1枚あめそうです。

20151001163922.jpg

それでも、これまでベトナムに送っていただいた自作のセーターの
通算やっと20枚め、

理想だけなら、
10枚ほどまとめて送れればうれしいのですが

来年も、参加できますように。


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