第二次大戦後75年。
インパール作戦の記憶 終戦 ただ「平和」と言うたかてあかん。国を愛し努力しないと
抜粋、
1945年3月、谷口實男さん(101)は、集中砲火を浴びたビルマ(現ミャンマー)の
マンダレー城から脱出したが、脚を負傷して南100キロの街「カロー」の野戦病院に運ばれた。
この戦闘で、所属した通信小隊では11人が戦死した。薬もなく横たわりながら、
戦友の一人が教えてくれた和歌を思い出していた。
我(わ)が背子(せこ)は/物な思ひそ/事(こと)しあらば/火にも水にも/我れなけなくに
万葉集の女性歌だ。古里で結婚を約束した女性が詠んでくれているようだと語っていた。
「愛(いと)しい人よ、物思いをなさるな。何かあれば火の中、水の中にだって付いていきますから」
どんな思いで時を過ごしていたのだろう。その彼もマンダレー城で屋根の下敷きになって亡くなった。
谷口さんは20日ほどしてなんとか歩けるようになり、タイ国境付近まで退いて迎撃準備をしていると
停戦命令を受けた。平野に一列になって、玉音放送を聞いた。
本土から迎えの船が来るまでの間、投降兵としてタイ臨海部の「バーンボー」で
日本兵の仮宿舎を造る作業に就いた。
そばに連合軍の宿舎が並び、各国軍の「勝った、勝った」と沸き返る声が連日聞こえていた。
しかし、インパール作戦で最も激しく戦った英軍の宿舎はしんとしていたという。
昼の作業で居合わせた英兵に言われた。
「君らは勇敢に戦った。いつか互いに手を取り合う時が来るだろう。それまでの辛抱だよ」
46年6月、京都府福知山市の自宅に戻っても地元は食糧難にあえぎ、白米には数年間ありつけなかった。
谷口さんは旧国鉄の仕事に打ち込む。
国を成長させたいという思いが強く芽生えていた。
戦争を通して、世界と渡り合える国力を付けたいと痛感したという。
かみしめるように言った。
「ただ『平和、平和』と言うたかてね、あかんのです。
国を愛して努力するというものがないと」
兄はフィリピンで戦死していた。谷口さんは、兄の婚約者だった朝江さん(98)と結婚し、
子ども2人、孫4人、ひ孫5人に恵まれた。
戦後75年。
このような至極当然な意見がぼつぼつ各紙にみられるようになったのは一歩前進
でしょうか。
国を愛し、国のために尽力して頑張ってくださった先人のみなさまを讃え感謝する、
あたりまえなことがあたりまえに通用する世の中でありますように。
小林カツ代先生の公式サイトにも、
現在まで(未来永劫に?)敗戦国・日本でいよ
と成されたGHQの呪縛とそこからの開放を指摘する
真っ当な書き込みがあり、むしろ驚きました。
終戦記念日によせて
ことわっておかなければなりませんが、
私も小林カツ代先生のファンで、レシピは大好きです。
但し考え方の一部、戦争だめ平和平和日本がわるかった
と繰り返していさえすれば平和実現するかのような主張には同意できません。
誰だって戦争は嫌いで平和がよいです。
平和実現の為には国力増強、
考えなくてはいけない事がたくさんあります。
愛する祖国・チベット
の苦難とともに生き抜いてこられたアデ・タポンツァンさんがお亡くなりになりました。
以前、畠奈津子さんのコミカライズで読んだきりなのですが、
アデさんの著書も、読まなくては。
「日本は素晴らしい・・・中国とは全然違う」アマ・アデさんからの《遺言》
中国投獄27年、自由訴え続けた亡命チベット「女戦士」
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