日ヨマタ上レ。
8月15日。
お盆
と同時に、1945年日本が敗戦したかなしみの記念日でもあります。
よく勉強させてもらいにうかがうこちらの閨秀ブログ
の記事を拝読して、
終戦で日本人がなにをされたか、知っておくべき事実!
・・・この一節に、(あっ)と思いました。
町田貞子先生の『続暮し上手の家事ノート』
のコンテンツ「八月の家事ノート」中の記載に重なります。
・・・・南のほうの戦争に集結していた日本が、満州の北からソ連に攻めまれたのは、私たちが引き揚げた二年後でした。
私たちが住んでいた吉林省の敦化も、工場から社宅まですべて占領され、ご主人がたは食料も与えられずに飛行場の使役にかりだされました。夫人や子どもたちは社宅の一部に監禁され、犯されて、たえきれずに自決されたのです。一部の夫人たちは、子どもとともに青酸カリをのんで自ら命を断ったということでした。
他人ごとでなく、私たちも同じ運命にいたのです。
満州敦化の悲惨なできごとは、終戦後しばらくして知りました。あまりのことに声も出ず、すすり泣きしていた子どもたちがこらえきれずに大声で泣き出し、夫も私も家族みんなが声をあげて泣きました。
・・・・夫がパルプ工場建設のために中国(旧満州)に転任したのは昭和十二年の暮れのことです。
家族四人、長女は五歳、長男は二歳でした。北海道できたえたつもりでも、真冬の寒さは比較にならないほどの厳しさでした。
春の暖かさとともに設備も次第にととのい、平和そのもののようなおだやかな生活の中にも、すでに一抹の不安はしのびよっていました。工場や社宅を囲っている厚い塀には銃を撃つ穴があけてあり、馬賊に襲われたり、守備にあたっている人が殺されたりすることもたびたびだったのです。
昭和十七年の十月末、妹の結婚式に出席するために一人で帰国した夫は、海軍の命を受けてそのまま満州に帰ることなく、十二月二日に南方の戦地へ発つことになりました。
必要な品じなをすぐ送ってよこすように、という長い電報が届いたのは十一月のはじめでした。戦争が始まっていることなど、ほとんど知らされていないので、そのときの驚きは、今思い出しても胸が痛みます。
その夜、私は一晩寝ずに考え明かし、翌朝すぐに返電を打ちました。
「あなたの仕事のために満州に来たのに、あなたがいないのでは私は残る意味がない。必要といわれた品じなは手に持ち、あとの家財道具は荷造りして送る。したくができ次第すぐ、子どもたちと発つ」
その日からすぐに学校の手続きや荷造りをはじめたのですが、またすぐに夫から電報が来ました。
「今、東京は食糧不足、子どもたちもかわいそうだ。満州が安全だといってそちらへ行く人もいる。東京は危険だ。必要品早く送るように、子どもたちのこと大事に頼む」
私は荷物をまとめながら、またひと晩考え明かしました。夫は果たして戦地から帰ってくることができるだろうか。もしものことがあれば自分が働いて子どもたちを育てなければならない。買い物ができる程度の中国語では何をするにもとても無理だが、日本にいればどんなことをしても食べさせるぐらいはできる。どうせ死ぬなら日本で死にたい。
これまでは夫に従う一方でしたが、私一人で子どもたちの責任を負うためにはどうしても帰国しなければならない、というのが考えに考えた上での結論でした。
・・・・何回かの電報のやりとりの末、夫は不承ぶしょう会社に手続きを頼んでくれました。
・・・・身内のように親しくしていた社宅の人たちも、夫と同じように
「東京は危険だから帰国はあきらめなさいよ。子どもたちが可哀そうよ。私は親をこっちに呼ぶ手続きまでしているのに」
としきりにすすめてくれますが、不思議に私の心はゆるぎませんでした。私は好意の言葉に詫びながら、着々と支度をすすめていたのです。
会社で働いていたり、社宅に食料品などを売りにきていた数人の中国人も
「子どもさんおいていきなさい。日本食べるものない、可哀そう。私、大事に預かる。ジャングイ(旦那)来るまでおきなさい。子ども連れては旅は大変よ」
といってくれます。
でも、私は子どもを盗られるような悲しい気持ちになり、好意にお礼をいいながらも、子どもは手放したくないからと、断り続けました。
・・・中国残留孤児の方がたを見ていると、そのときのことがまざまざと思い出されてならないのです。
当時、満州の中国人は自分に子どもが何人いても日本人の子どもをほしがりました。日本人は頭がよいというのです。
終戦の混乱の中では、さらわれて売られた子どももかなりいたと、北満ハイラルから命からがら引き揚げてきた私の妹が話してくれました。私たちもこのときに帰国しなかったら、命はなかったと思います。
思えば東京は危険だからと止めてくださった社宅の方がたが、逆にほとんど命をなくされてしまったのです。
かなしみの記憶であるとともに、歴史の貴重な証言ですね。
敗戦でなにが起こるのか、当時は誰にもわからなかった。
長引く戦争で窮乏する本土にくらべ
物資もゆたかでおだやかな外地の生活は
日本敗北とともに秩序瓦解して略奪暴行破壊のかぎりが尽くされ、
敗戦国の民は筆舌に尽くしがたい苦しみにさらされた・・・。
(第二次大戦後74年、あやうい国際社会の急変に玩弄されつつも運よく
アメリカの方針変更等もあり
日本ではかりそめにも「平和」でありつづけたわけですが、
世界はその間にも局地的に戦争や内戦でたいへんな時代をくりかえしてきた、
真っ先に犠牲になるのはどこの国でも罪なき民間人。)
召集されて御国のために戦い、
戦後は
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」
日本再建のために懸命に頑張ってくださった先人のみなさま
(「敗者は語らず」の日本的美徳は国際社会には通用せず、GHQの宣伝の甲斐あって?
「悪いのはなにもかもぜんぶ戦中の日本」と刷り込まれる弊害もありましたが)
の恩に報いるには、
決して再びむごたらしい時代に引き戻されずに
平和で開明で豊かで繁栄する日の本の国
を次代またその次の代の子どもたちに、連綿と繋いでゆくこと、
大望であり
そのためにはまず
今現在を生きる私たち自身のささやかな役割をはたしてゆかなくてはと思います。
「戦争を語り継ぐ」を考える。
戦争を語り継ぐを考える、その2
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